夕映えのはな

      夕映えのはな

向こう側の空が朱色に染まり、連なる山並みのシルエットが浮かび上がっていた。
富子は、刻々と沈み行く太陽を見るのが好きだった。
今ようやく代掻きも済んで、満々と水を張られた棚田が眼下に広がっている。
その小さく仕切られた一つ一つの田んぼに中には、その数の分だけ赤焼けの空と、山並みの稜線を焦がす太陽が映っていたに違いない。
「ほらー、早く帰りなさーい。暗くなっちゃうわよー」
「うーん」
 山あいの小さな分校。
その、猫の額ほどの校庭のそこここには、春の訪れが遅い分だけ余計に、初夏の草花がにぎやかしく咲きほころんでいた。
古びた木造校舎の背後には針葉樹林の壁が迫り、眼下の棚田へとスロープを形成している。
金網の向こうの、沈み行く太陽を凝視する富子。
「ふーっ・・・。ふふふ、やっぱり、富子さん・・・」
「ああ、りえせんせい・・・」
校舎の中から手を振りながら駆け寄ってくる、若い女性教師、宮川りえ。
「ほら、すぐに暗くなるわよ。お父さんとお母さんが心配するでしょう。ねっ」
「うっ、うん。あっ、はいっ・・・。あのなあ・・・」
「ええー、どうしたの?」
何か訳ありげな、富子の様子を気遣う、りえ。
「んっ、ううん。おら、なんでもね」
「ねえ富子さん、心配事が有るんだったら先生に話してちょうだい、いいわね・・・。へえーっ、それにしても、こうしてじっくり見ると本当にきれいねえ。富子さんもそんなに好きなの?、棚田のこと・・・」
富子の真後ろに立ち、背後から抱き抱えるようにして顔を覗き込んだ。
「あっ、ううん。おら、だんだんだっぽなんかすきじゃねっ。まちのひろいたっぽのほうが、いい・・・」
金網に指をかけたまま、食い入るように夕焼け空を見つめる富子。
「あら、そうなの、ご免なさいね。ほら、富子さん、さっきからずーと見ていたから・・・。でも先生は棚田が好きよ。こんな山あいの斜面を切り開いてお米を作る農家の人たちもすごいと思うし、だってこんなにもきれいじゃない。春まだ雪深い中でもあぜ道だけが最初に顔を出してくるでしょう。可愛らしいふきのとうをたくさん抱えててね。こうして代掻きも済むと一面水を張られた一枚一枚の田んぼが朝日や青い空、夕焼けだって鏡みたいに映し出す。これから田植えが始まれば、斜面全体が明るい黄緑色に覆われ、今度は季節ごとに色が濃い緑色から取り入れ時期には山全体が黄金色に変化してゆくの。一つひとつの小さな田んぼの表情が人の顔のように見えてきて本当に楽しいと思わない?・・・。ふふふ。あら、そうそう暗くなってきちゃう、 家族の人が心配するから、ねっ・・・」
「う、ううん・・・。あのなあ・・・」
やはり何かを言いかけては口ごもる富子。
「えっ、どうしたの?」
「あっ、ううーん。べつに、なんでもね。いい」
「ねえ、富子さん、後で先生が家まで送って行ってあげるから、先生達のところでおまんじゅう食べていかない?、美味しいわよ。おまんじゅう、嫌い?」
「う、ううん。おらはいいけど・・・」
富子の様子に異変を感じたりえは、心のうちを察してあげようと教務員室に誘うのである。
富子にとって、饅頭が嫌いなはずもなかった。
「そう、良かった。じゃあ、いらっしゃい」
「うん・・・」
夕闇迫る薄暗い校庭を、富子の手を引くようにして歩み始める、りえ。
狭いグラウンドを横切り、直接非常口から先に教務員室に入ってゆく。
「ほら、富子さん。中に入って、ここに座って・・・」
「ん、うん」
入り口の間仕切りの隙間から中の様子を伺う富子を招き入れ、自身の椅子に座らせた。
室内では所狭しと、明日行われる運動会の準備の品を床に並べている男性教師二人。
「あれ、トミちゃん。まだ学校に居たのかい?」
「あっ、うん、こうちょうせんせい」
作業の手を休め、顔を上げて富子に話しかけてくる主任教師、高梨幸三。
「こんなに遅くなって、お父さんやお母さんは心配しないんかい?」
「えっ、ああ、私が帰りに一緒に家までついていきますから・・・。先生方もお茶を飲みますか?」
給湯室の中から、お茶の用意をしながら事情を説明する、りえ。
「ああ、そう。りえ先生、ちょうど今飲みたかったの、お願いしまーす」
「はい。あっ、これ明日の運動会の紅白まんじゅう・・・。お店の人がね、多く作りすぎたから皆さんでどうぞって、置いてってくださったんですよ・・・。富子さんは私の分、半分こっね・・・。はいっ、これたべなさい」
お盆の中に並べれれた三つの大きな紅白饅頭
りえはその中の一つ赤饅頭を丁度真ん中から二つに切って、富子の前に置いた漆の小皿に載せて顔を覗き込んだ。
「うん、いただきます」
「ふふふ、どう美味しい?」
「うん、うめっ・・・」
「そう、良かった。じゃあ、もう半分もどうぞ」
ガラスのコップにサイダーを注ぎながら、美味しそうに食べる富子の表情を確認するだけで十分満足だった。
りえは自身の分の残りの半分を、また富子の小皿に載せてやる。
「それ、りえせんせいのぶんだ。おれ、いらね」
こしあんのしっかり入った饅頭を口いっぱいに頬張りながら、富子は首を大きく振って遠慮するのである。
「そうですよ、それはりえ先生の分ですよ。だから僕のを富ちゃんに半分あげますから。それだったらいいですよね」
隣で様子を見ていた若い男性教師、市村浩二が二人の間に割って入り、りえに対して同意を求めてきたものだ。
「おら、いらね」
「ほら、こっちは白い饅頭だよ。おいしいんだから・・・」
「富子さん。ねっ、せっかくだから頂きなさい」
「あー、うん。じゃあ、おらもらう」
りえに促されると、顔を綻ばせながら待ってましたとばかりに両手で受け取る富子。
饅頭を口いっぱいに頬張る屈託のない笑顔の中にも、時折見せる暗い表情がりえには大いに気がかりだった。
「ねえ、富子さん、何か心配事があるんでしょ。遠慮しないで言ってみて、ねえ」
「んっ・・・んんん」
りえは美味しそうに頬張る富子の髪を撫でながら、静かに問いただした。
「そうだよ、トミちゃん、困ったことが有ったら言ってみな。みんな仲間だよ・・・」 
沸騰したアルミのやかんを持ちながら、富子の様子を気遣う主任教師の高梨。
「・・・うーん・・・」
「ほらったら、富ちゃん・・・」
富子はそのとき紅白饅頭を頬張りながら、家庭内の事情を全て先生方に喋って良いものかどうかを真剣に考えあぐねていた。

昭和七年、世は不景気の真っ只中、甘いものが容易に手に入る時代ではなかった。
東頚城丘陵地帯の特別豪雪地帯。
早生まれの富子(わたし)はようやく、小学校に通い始めたばかりだった。
     

 
2015年(平成27年)某日
   東京・・・

週末の仕事帰り、眩いほどの初夏の陽射しは一向に弱まろうとはしなかった。
繁華街の目抜き通りから一本裏通りの、周りとは若干場違いにしっとりと落ち着き払った雰囲気の喫茶店
「やあ舞子ー、お帰りなさい・・・。主役決定おめでとう。やったわねえ、日本でも大々的に報じられているのよ。本当に凄いじゃない」
素通しの、重厚のガラスドアを開けて姿を現す主役を、奥の席から一斉に声を掛ける親友たち。
「何よみんなー、それって嫌みなの?もうっ。主役なんかじゃなくってよ、ふふふ・・・。でもありがとう・・・」
「えーっと、準主役だったかしらー?、ふふふ・・・。はいはい、ここに座ってちょうだい。今日の主役はあなたなんだから・・・」
満面笑みをたたえた一斉の拍手の歓迎に、怒る筋合いもなかったろう。
奥の席に立つと改めて、一人ひとり篤いまなざしに無言でこたえたものだ。
そしてテーブルに載せたバッグから、彼女らの好みに合わせて買い求めた土産を夫々に手渡していった。
「ええーっ、舞子ありがとう。ねえ開けていい?」
「勿論ですとも・・・。どう?」
「うわー、これ本当に欲しかったのよ。日本ではまだ発売されたいないでしょう」
「喜んでもらえて良かったー・・・。全部色違いなのよ。みんなで取っ替え引っ換え出来るでしょう。ふふふ・・・」
本場ヨーロッパで若い女性に話題沸騰の、人気ブランドイヤリングであった。
日本では未だ発売されておらず、彼女らが喜ぶのも頷ける。
「そうそう、ねえ、私たちもささやかなお祝いをしたいんだけど何かリクエスト有るかしら?何でも気兼ねなく言ってよね、舞子」 
「あらあらっ大きく出たわね。そうねえ、まあ色々と有るけど、どれも高いわよーっ」
あれもこれもと、如何にも思案げな顔を見せつける舞子。
「えーっ?、もう脅かさないでよ舞子。私たち新人OLの身分も少しはわかって頂戴よね」
「ふふふ、嘘よー、うそうそ、冗談よ。みんな、本当にありがとう・・・。ふうー、でも、このお店だけは何故か全然変わっていないわねえ。ほらほらマスターにしてもそうでしょう、私たちが高校生の時のままじゃない。それよりこの近くのお店って随分様変わりしちゃったわよねえ。中通りの有名ブランド店なんてヨーロッパの本店なんかよりよっぽど品揃えが多いわよ、もうあ然・・・。あっそうそう、ねえっ今日は飲みに連れてってよ。それくらいだったら良いでしょう?。あと、そうねえ、じゃあもう一つだけ・・・。私が日本に居る間にみんなで温泉に行かない?ねえ良いでしょう。私ね、ひなびた良い温泉知ってるのよ。日程はあなたたちに任せるから・・・。ねっねっ、良いわよね」
土産のアクセサリーを手にして満足そうな各々の顔に訴えかけるのである。
「うーん、まあねえ、しょうがないか。こんな高価なお土産貰ったことだし、それに後でゆっくりヨーロッパの土産話も聞きたいし・・・。何せ、あなたは私たちの希望の星だものね。そうよね、秘湯めぐりも悪くはないわよねえ。ねえねえ、あなたたち、どうせだったら有給休暇使って三、四日都合つけましょうよ。どう?・・・」
「ええっ、賛成賛成ーっ・・・」

星野舞子、ヨーロッパ王立バレエ団所属バレエダンサー。 
高校在学中に出場した当主催コンクールに優勝し、それを期に、王室直轄名門バレエ学校に入学する。
卒業と同時に結んだ正式な団員契約。
公演の度ごとに重要な役どころを任されていた。
次回の日本公演に先駆けて一時帰国し、多忙なスケジュールの合間を縫って学生時代の親友たちと旧交を温めるのだった。
 
 新潟 松之山温泉

「へーっ、確かに静かな所ねえ。だけど舞子がひなびた温泉だって言うから、本当はもっと山奥かと思ったんだけど・・・」
「ふふふ、山道を半日以上歩くとでも思った?・・・」
「そうじゃないけど・・・。それより日本三大薬湯って言うだけにホウ酸の臭いが凄いわねえ。けっこう塩分も凄いみたいだし、ほらっまだ体がポカポカしてる」
東京・新潟県を結ぶ高速道路、関越自動車道塩沢石打インターを降りて小一時間、舞子の運転する乗用車でそのまま予約した温泉宿に乗りこむ三人。
まだ陽も高かったが女将に勧められるまま、見晴らしのよい特設露天風呂で大の字に手足を投げ出せば、つい満足のため息も出ようというもの。
源泉掛け流しの豊富な湯量と眼前に照り輝く山野の新緑、そして何より、日本一含有量の多いホウ酸の臭いと相まって弥が上にも秘湯気分が盛り上がり、一瞬にして日頃のストレスが吹き飛んでゆく。
心身の癒しを意識し、美肌効果を期待しながら部屋にも戻れば、女将の用意した新茶と、開け放った窓から吹き込む清涼な風に任せて季節の野鳥の鳴き声や、川のせせらぎが奏でるハーモニーがそっと静かに迎え入れてくれる。
「極楽、極楽・・・」
「ふふふ・・・、本当・・・」
恵美と幸江は、上越地方への旅行は初めてという。
「ねえ、そうでしょう。今でこそアクセスが良いけど昔はほんとに不便だったらしいのよ。だから他の温泉地のように大きく栄えなかったのかもねえ」
舞子にとっては祖母の実家から程近く、幼いころから通い慣れたこの松之山温泉はまるで庭のような存在であった。
「秘湯と呼ぶに相応しいのかもねえ。全てを観光地化したくないっていうこの地の拘りなんでしょう。そうなんでしょう?舞子」
「ええっ?ええ、そうかもねえ」
「ねえねえ、もう一度入らない。今度は大浴場の方で泳いじゃおうよ。ね、ねっ・・・」
「もうっ、恵美ったら・・・。しょうがないわねえ。分かったわよ、まずお茶を一杯飲ませてちょうだい。後で湯当たりしても知らないからね」
「良いから良いから、早く早く・・・」
黒光りする板敷きの廊下を渡って大きな暖簾を潜れば、古き湯治場の雰囲気を色濃く残す檜の大浴場が姿を現す。
湯気の向こうのスクリーンに見立てた木戸の窓ガラスには、すでに暮れなずむ空を朱に染めて、何時しか彼女らを懐古の世界へといざなってくれる。
「あっ、ねえ、あれ蛍じゃない?」
「えっ、嘘でしょう、幸江・・・。どうなの、舞子?」
「えーっ、さあねえ、どうなのかしらねえ?」
先ほどの言葉とは裏腹に、淑やかに湯船に浸かって満足の表情の三人。
窓の外では宿の脇を走る清流の、カジカガエルの鳴き声しきりだった。
信州との県境に程近い天水連峰の窪地にして日本有数の豪雪地帯。
松之山の、その豊かな自然と素朴で飾らない人の温もりは、都会の喧騒から逃れ、オアシスを求めてこの地を訪れる者の心の中に否が応でも染み入ってくる。

      翌日・・・

「あー、電動自転車って本当に楽チンよねー」
「ええ、でも昨日、車で通った旅館までの道より、この一帯はそれほどアップダウンが無いんじゃない?」
「そうなのよ。この辺からはゆったりとした上り坂なのよねえ」
三人は朝食を済ませて早々、旅館のレンタル自転車でいざ里山の散策に繰り出していた。
昨日と同様、朝から晴れ渡る陽射しはかなり強かったが、目も覚めるほどの木々の新緑の息吹や、沢伝いの川音を伝えて吹き抜ける透明な風を受けて気分はまさに上々だった。
「ふうーっ、ねえっ、星峠ってこの辺なのかしら。それにしてもここからの棚田も風情があって良いわよねえ。手入れも行き届いているみたいだし・・・。ねえねえ、考えてみるとさあ、最初にここを開墾した人って凄いと思わない?。だってこんな傾斜地より山裾の平らなところの方がよっぽど良かったわけでしょう?」
「ええーっ?、まあねえ。でも今だってこの地を引き継いで管理している人だって大変だと思うわよ。機械は入らないし、手間だって余計にかかるはずだもの」
「そうそう、こうゆう風景を見るとさあ、日本の原風景って感じするわよねえ・・・」
時折目に飛び込んでくる茅葺の古民家に、古き善き時代への郷愁を覚えながら踏むペダルも軽快そのもの。
見渡せば、そこかしこで今を盛りにピンクのタウエバナや、陰でひっそりと佇むワスレナグサが、眩さで目も眩む新緑にそっとアクセントを添えていた。
瞬くのも惜しい天水山一帯の美しきナラ林、息をのむブナの森の鮮やかな深い緑。
若葉の息吹に負けじと所々で初夏の山鳥が声を轟かせ、愛らしくも、番いの山リスがこちらに向かって愛嬌を振りまいてくる。
「ふうーっ・・・。ねえっ舞子、近くにコンビニストア無いかしら。この辺でちょっと一休みしようよ、ねっ」
「あのねえ幸江、ここまで来てて何でコンビニなのよ、もうっ・・・。あっ、ほらほら、あそこに湧き水が出てるでしょう」
「ええー?。ああ、本当・・・」
広葉樹の葉を逆光にして木漏れ日の林の中を、穏やかに弧を描く上り坂。
思い思いに沢崩れ跡の道端に自転車を寝かせると、水場に向かって一目散に駆け出していった。
「あはーっ、私が先よーっ、よいしょっと。どれどれ・・・。ああ、うん、冷たくて美味しいわ!」
「ふふっ、ほらっゆっくり飲みなさいよ」
「ほんとう!、全然違うわねえ。東京の水道水みたいなカルキ臭なんて全然しないわねえ」
節を取り除いた竹の筒から滾々と流れ出る湧き水を、備え付けの木の杓子に満たすとそのまま口の中に流し込んだ。
「ぷっ、水道水は無いでしょう?・・・。まあねえ、この地域でも、もう井戸の無くなった家はお茶用の水をここから汲んでゆくらしいけれどね」
豪雪地帯、天水連峰の雪解けの水は長い月日を経て地中の天然フィルターで漉され、清水として湧きいずる。
夏でも冷たい通年定温の湧き水は、飲むごとに皆の喉元を快適に潤し、心身共にリフレッシュ効果満点なのである。
「ねえ、舞子。あの日陰でそろそろお昼にしましょうよ」
「えっ、ああそうね。そうしましょう」
雪解けの遅い分でも一気に取り戻そうとしてか、降り注ぐ初夏の陽射しはかなり強烈だった。
日焼けを嫌って紫外線から逃れるように、ブナ林の木陰で一斉にレジャーシートを敷いてゆく面々。
各々背負っていたデイパックの紐を解くと、宿で用意した昼食を取り出した。
「よいしょっと・・・。あーっ、この笹の葉っぱのお結びってさあ、時代劇で見たことある。懐かしいーっ」
「ぷっ、あのねえーっ!、なにも時代劇はないでしょう。ほらっいいから食べてみてよ。旅館の人に頼んで特別に作って貰ったのよ、もう・・・。どう?、サチ・・・」
用意したお茶を紙コップに注ぎながら二人の顔を覗き込んだ。
「ああ本当、美味しいーっ。舞子ったら、やっぱりお米なんだって言いたいんでしょう・・・」
「まあねえ。ほらっ、この山菜漬けもどうかしら?・・・」
さらにプラスチックケースから数種のお新香と焼き魚を取り出し、紙のお皿に盛って箸を手渡した。
「へえーっ、なるほどなるほど、山菜の漬物が抜群・・・」
「ふふふ・・・ねえ、良いでしょう・・・。ああ、そうそう、私の母方のおばあちゃんなんだけどね、実はこの近くに住んでてね。あなたたちの事を話したら是非家にも泊まっていってほしいって言うのよ。良かったら二人とも、最後の日はおばあちゃんの家に泊まっていってくれないかしら・・・。どうっ?」
「えっ、べつに良いけど。ねえ、メグは?・・・」
「ええっ私も構わないわよ。それより舞子のおばあさんってさあ、一体どんなひとなの?」 
「えーっとねえ・・・、そう、まだまだ元気で、本当に可愛らしい人なのよの。今、この松之山で一人暮らしをしててて。ええーっと、年は確か大正生まれのね・・・・・・」


   1926年(大正15年)2月1日
     松之山・・・
 昨晩から音も無くしんしんと降り積もる雪は、既にもう二階の窓まで達しようとしていた。
薄暗い部屋の、枕元に置かれた大きな木のタライ。
中から立ち上る湯気は傘すら無い裸電球に照らし出され、まるで煙突から立ち上る煙のようにゆらゆらと影を作りながら屋根裏の萱に吸い込まれてゆく。
時折音をたてて吹き込む隙間風が、寒気をもってその影を大きく吹き飛ばし、また産婆の髪と頬を叩いた。
「まささんっ、気張らんされー。もう少しですがのーっ、ほれっほれっ・・・」
「・・・まさっ!、しっかり・・・」
厩の二階に建て増した若夫婦の寝室。
祖母の母、まさは、実母と産婆に見守られ、一貫目は有ろうかというほど大きな赤子を産み落とした。
心身とも健やかで、才知に富み、そしていつしか資産家との良縁に恵まれるように願いを込めて、富子という名前をつけたという。
関東大震災未だ復興ままならなず、世の中が混沌としていた大正十五年、二月一日。
舞子の祖母は、長野県境に程近い山間豪雪地、新潟県東頚城郡松之山町に生まれた。
その年の暮れ、十二月二十五日、大正天皇崩御 摂政祐仁親王践祚 即位
世はまさに大正デモクラシーを経て、皮肉にも、明るく平和の時代を願った激動の時代、昭和を迎えようとしていた。 


1932年(昭和7年

富子(わたし)の家は両親と祖母、そしてわたしの四人家族だった。
元々この村で大工職人として働く父と、幼馴染だった母とが結婚。
前年、祖父を亡くして男手の無いこの家に、六人兄弟の三男だった父が婿養子として迎えられた。
専ら大工として外で働く父と、祖母と母が概ね自給用に田畑を耕作する兼業農家なのである。
父は、普段は真面目でおとなしく、人当たりも決して悪い方ではあるまい。
仕事の評判もすこぶる良く、棟梁に指図されるままにこつこつと自分の仕事をこなすのだという。
人のことを騙したり蹴落としたりするような性格ではなく、とりわけて道楽にうつつを抜かすなどということも一切聞いたことなどなかった。
何より内弁慶で気が小さく、しかも婿養子という気兼ねから家人には当たれない、その積もり積もった憂さを解消する手段が飲酒で、そして父の唯一の楽しみだったのかもしれない。
父は帰宅するとすぐさま作業場の板の間に大工道具を肩から下ろし、そのまま台所の流し場に向かった。
顔や手を洗うでもなく、濯ぎ終えたばかりの自分専用の湯飲み茶碗を左手に持ち替え、右手の指を巧みに使って中の水滴を振り払う。
そして身を屈めながら茶箪笥の奥の酒瓶を取り出すと、何か愛しいものでも見詰めるように、二股ソケットの白熱電球にかざして残量を確認するのだ。
納得したように立ったまま酒瓶の栓を抜いてその口元を右手で持ち替え、左手の湯飲みにとくとくと音をたてさせながら中ほどまでつぐと、もう父は舌なめずりしながら待ちきれないとばかりに一気に酒を飲み干してしまう。
そのまま大事そうに酒瓶を抱えて茶の間の囲炉裏端に自身の陣を取る父。
まだ膳が出る前にもかかわらず膝元に置いた湯飲みに顔を近づけながら、量ったように、もうこれ以上は絶対無理という限界ぎりぎりまで酒を酌み、しまいには、一滴でさえ絶対に毀れさせまいと両手を添えて静かに持ち上げ、まるでひょっとこのように口を尖らせて湯飲み茶碗に吸い付く幸せそうな横顔。
愚痴を溢すことも無く、一人静かに、手酌のきれいな酒だったのだが・・・
家族の誰もが、父の深酒を止めさせることが出来なかった。
毎日のように、飲めば飲むほど変わってゆく父の姿を、わたしはただ傍で他人事のように傍観するしかできなかった。
そして一頻り暴れた後は「おら、こんな山ん中さ嫌だすけ、直ぐに出ていぐ!」と一言捨て台詞を吐くと、後はそのまま静かに眠りに就くのである。
おそらく心の奥底に、誰にも言えない何か大きな悩みや不満を抱え込んでいたのではなかろうか。
それでも決まったように朝早く起きると、昨晩の出来事など全く知らぬ存ぜずで淡々として身支度をしてゆくのだ。
そのまま母が用意した膳につくと、椀に盛られた麦飯の上に手馴れた手つきで大根の新香とぜんまいの煮付けを小奇麗に載せ、手渡された菜っ葉の味噌汁を碗いっぱいに満遍なくぶっ掛ける。
一瞬、目でも瞑っているのだろうか宙を仰いで一気に口の中に掻っ込むと、そのまま噛まずに飲み込む連続。
仕上げには、小鉢の中の如何にも見栄えの良い梅干を箸で探り当て、もうすでに条件反射のように唾液でいっぱいの口内に、しょぼくれてしまった唇を抉じ開けて放り込んだ。
ここぞとばかりに、入れたばかりのかなり渋いお茶でゆっくり口を濯いで飲み込むと、満足そうな安堵のため息ひとつも吐くのである。
間髪入れずに、ズボンの腰バンドにつけたお手製の煙草入れからキセルを外し、その吸い口に口を窄めながら息を通す父。
刻み煙草の葉を器用に火皿へ押し込んで、囲炉裏の中の、真っ赤に火照る炭を火箸で抓んで煙草に火をつけ一服、二服、実にうまそうに飲み込み、吐き出した。
種火に煽られて、屋根裏から吊るされた黒く燻る藁縄に絡みつき、ゆらりゆらりと立ち上る煙草の煙。
父は燻る煙の行方を追いながら、思い出したように、キセルの腹を囲炉裏の縁で叩いて吸殻を飛ばして、やおら立ち上がった。
後はもう、板の間に置いた大工道具を背負い、黙ったまま一目散にくたびれた自転車をこぎ出してゆく、物静かでおとなしく、婿養子で遠慮がちな父の丸い背中。
わたしは、普段酒に飲まれていない時の、優しい父の横顔が好きだった。
だが父の記憶は、その年の暮れで途切れたのだ。
東京に出稼ぎに出たまま、翌年の春になっても、以後二度と松之山に戻ってくることは無かった。
棟梁の話によれば、ようやく届いた雪解けの便りにいよいよ東京を引き上げようという段に至って、父は、ひいきにしていた飲み屋の女給と店の売り上げを持って夜逃げをしたのだという。
そのとき連絡を受けた母が、すぐさま東京に駆けつけたところでいったい何の解決になったのだろうか。
いつものように、父がしでかした酒での失敗を尻拭いする辛そうな母の顔がわたしの脳裏を過り、案の定、的中した。
それからの母はまるで何かに取り付かれたように、或いは何かから逃れるように、感情を微塵も表に出すことなく農作業に精を出すようになっていた。
母親の顔から笑顔が無くなったのは、ちょうどその頃からだったのかもしれない。
 
6月某日 

「あらっ、こんにちは富子さん、お昼食べてきたの?・・・。そうよね、もう田植え終わったころだものねえ、良かった。ねえ、お母さんはお元気?・・・」
「うん、元気は元気だども。おらっ、よく分んね」
「そーっ・・・。ねえ富子さん、またご本読んであげましょうか?」
「ああ、うん。おら、うれし・・・」
土曜日の昼下がり、学校は授業が半ドンでもう児童は誰一人居なかった。
農繁期の田植え作業もようやく昨日、今日で終了し、わたしは自宅で昼食を済ませて分校の校庭に顔を出していた。
一週間ぶりに優しいりえ先生に会える喜びで、心躍る思いだったのである。
「学校に来ること、家に人に言ってきた?」
「うん」
「そう、じゃあいらっしゃい」
先生は小さな校舎の二階部分を間仕切った、教室の奥の書庫室にわたしを誘うと、室内中央に据えた大机の上に風呂敷包みを広げてゆく。
中の新聞紙を開けると、一口サイズの美味しそうな揚げ餅が顔を現した。
「富子さん、おかき好き?」
新聞紙毎、わたしの方に向けながら微笑みかけてくる。
「うん。おらすきだ」
「そう良かった。これね、私が揚げたのよ。ほらっこんなに一杯有るから、ねっ食べてちょうだい」
「あっ、うん」
狐色に揚がった揚げ餅は砂糖醤油でたっぷり塗され、一口かじっただけでもう口の中は甘じょっぱい香ばしさに満たされていた。
わたしが食べ終えるのを待って次の揚げ餅を手に握らせてくる、りえ先生。
「どう?」
「うん、うめ・・・」
「そう、良かった。ねえ、何のご本を読んでほしい?」
「んー?、まえのほん・・・」
「じゃあ、この間の続きよね。ちょっと待ってて・・・」
先生は書棚から、児童文学海洋冒険小説集の分厚い単行本を取り出すと、しおりを挟んだページを開いた。
「うん、うれし・・・」
わたしは、手にした揚げ餅を新聞紙の上に置くと期待に胸を躍らせながら、頬杖を突いて先生の方に向き直った。
開け放たれた木製連窓から見える大川の向こう側の山並みの、初夏を彩る新緑の息吹が眼に眩く映え、ときおり白地のカーテンを揺する季節の風が、今を盛りに咲き乱れる満開の草花の香りを運び入れてくる。
校舎の裏山から聞こえてくる春告鳥の声、うっとりするくらいの先生の読み聞かせ、わたしはうつらうつら夢の世界へと導かれるように、いつの間にか、父との思い出に浸っていった。

わたしは好物の唐豆をかじり回しながら屈みこんで、土の中のミミズを探している父の丸い背中に凭れかかった。
うず高く積まれた堆肥の下の藁を退かしては、次々と金箸で器用につまみ上げてゆく父。
丸々太った大人しいミミズは避けながら、小ぶりで自ら箸に絡みつくほど生きの良い獲物を見つけては満足そうな表情で宙にかざすのだ。
「とちゃん、さかなつりにいくんか?」
「あっ、あーそだ。ほれっ」
目を凝らして覗き込むわたしの鼻先に、ミミズの入った缶詰の空き缶を突き出してくる。
「うわーっ!、とちゃんやめれってーっ・・・。あっ!・・・」
暑さで干からびないよう土を入れた缶の中で、一塊になって絡みあい蠢きあう多くのミミズ。
わたしは思わず、まだ食いかけの蒸かし唐豆を地面に落としてしまった。
「あははは・・・。ほれっ、食うか?」
堆肥がたっぷり染込んだ土の上から拾い上げた唐豆を、父はからかいながらも、わたしに持たせようとするのである。
「きったねー。おら、いらねっ」
「ははは・・・そか・・・。とみ、お前も行くか?」
「つりかーっ?。うん、おらもいくっ」
当然断るのを見計らい、山と積もれた堆肥の最上部に唐豆を堆肥を放り上げながら、わたしを釣りに誘う父。
ミミズの詰まった缶をブリキのバケツに入れ、納屋の隅からつり道具と日除けの帽子を持ち出してくる。
自らスゲ笠をつけ、わたしに麦わら帽子を被らせながら、そのまま背もたれ付きのおんぼろ自転車の荷台に両脇を抱えて乗せると、自身手製の釣り竿を握らせてくる。
足元に置いた道具一式入ったバケツをハンドルにかけ、自転車のスタンドを起こすと、やおら自転車を押し出す丸い背中。
父は、こうして大工の仕事がない休みの日でも、家の農作業を手伝うことは一切無かった。
決して父自身が野良仕事を嫌ったわけではなく、母が農繁期のどんなに忙しいときでも父を田畑に出さなかったからだ。
それは父への気兼ねだったのか、それともひょっとしたら、母の、世間に対する精一杯の体裁だったのかもしれない。
高々、家族四人が食す量を耕作するだけの自作農家だったのだが。
「・・・あはははは・・・」
「おっかなくねかーっ?」
「んーっ、あーっ」
家の前には隣の集落とを結ぶ一本道が通っていた。
その、なだらかな下り坂を風を切って走るおんぼろ自転車。
水溜りやわだちが出来ないよう全面敷かれた細かな砕石が、勢いをつけたタイヤに弾かれて弾け飛ぶ。
わたしは必死で父の背中に抱きついていた。
「とちーゃん」
「・・・あーっ?」
「・・・んん、んー」
県境を跨ぐ山々に覆われたこの地は、冬には驚くほどの降雪に外気は湿って痛いほど冷たく、それでいて夏は夏で、窪地に降り注ぐ強烈な日差しが澱んでむしむしと照り返ってくる。
じっとしていても汗が噴出すほどで、それでも、こうして自転車で風をきる心地よさは格別だった。
いよいよ下り坂にさしかかると、わたしは釣り竿を持ち替えながら父の丸い背中にしがみ付いた。
麻の作務衣に染みついた、汗とタバコの父の匂い。
どれほどの悪路でタイヤが跳ねようと、わたしは怖いことなど全く無かった。
父は坂の途中の長い松林の中を、尚も勢いをつけてペダルを踏んだ。
汗ばんだ肌も日陰で幾らかひんやりとして涼しく、そして咽せかえるほどの松の香りが一瞬わたしを眠りの世界に誘ってくる。
すると今度は、鼓膜が張り裂けんばかりの蝉しぐれがいきなりわたしの脳裏を襲い、現実の世界に引き戻す。
それでも砂利道は、なだらかに大きく弧を描いてどこまでも続いた。
ようやく松林を抜ける頃、いきなり空気が変化するように、沢へと繋がるブナ林の中の細い道が姿を現わす。
父は自転車のスピードを緩めると、草薮に覆われた山道にハンドルをきった。
天に向かってすらりと伸びたブナの木々が、時折り沢伝いに吹き渡る風を受けてザワザワと空気を揺すり、濃淡鮮やかに彩る枝葉の隙間から、眩いばかりの初夏の光を差し向けてくる。
タイヤが進むごとに、草むらのバッタもコオロギも跳ね返り、野草に群れた、淡色のモンシロ蝶が一斉に舞い上がった。
頭上では、カシ鳥のだみ声がこだましている。
「とちゃん、あつくねか?」
「ああ、もうすぐだて」
ブナ林の長いトンネルを抜ければ、蒼々と、見渡す限り一面に笹の葉が生い茂る高台が、目を覆いたいほどに照り返っていた。
高原を吹き渡る風が何とも心地よく、真夏の蒸し暑さから一瞬にして解き放ってくれるのだ。
父は野っ原の真ん中まで来ると、ただ一本の黒松の木陰に自転車の置き場を定めた。
スタンドを立てて、わたしを自転車の荷台から降ろすとつり道具一式を片手に抱え、まるで獣道のような細い下り道を沢伝いに進んでいった。
程なく進むと蝉の鳴き声が止んで、突然V字型に削り取られた岩肌が眼前に現れてくる。
谷底の、白い石を敷き詰めた眩ゆいばかりの河原の中央を、海ほどの蒼さを湛えた川筋がくっきりと目の前に浮かび上がっていた。
いつものように思わず駆け出してしまう、わたし。
「とみっ、あぶねから!」
わたしは脇目も振らず一気に河原に降り立つと、短靴を脱いでその清流に足を浸からせた。
あれほど蒼かった水が間近では透明に透き通り、川底の岩魚の魚影がはっきりと見える。
それから、麦わら帽子をとって川の水を頭からかぶり、そのまま大きな石の上に大の字で寝そべった。
谷底の川面を吹きわたる風が火照ったわたしの頬を鎮め、実に爽快そのものである。
「ふーっ、とみは速えなあ。学校に上がっても、おめに勝てるもんは居ねぞー」
いつも同じことを言ってわたしを喜ばす。
確かに同い年の子と比べてもすでに一回り体が大きく、相撲や駆けっこでも負けたことがなかった。
父は、バケツと釣り竿を置くとわたしの隣に腰をおろし、バンドに付けたキセルと煙草入れを外しながら、ようやく周りの景色を眺め始めるのである。
煙をくゆらせながら煙草を旨そうに二服三服吸い終えると、いよいよ竿を伸ばして釣りの準備にかかる。
いかにも楽しそうに、自慢の竿を空にかざす父。
テグスを伸ばして先を手繰り寄せると、丁寧に浮きとオモリを結んでゆく。
最後に真新しい釣り針を付け替えると、バケツの中から餌の入った水煮の空き缶を取り出し、中でもとりわけ生きの良いミミズを誇らしげに宙にかざした。
身をよじって抵抗するミミズにとってはえらい迷惑な話だろうが、全くそんな事はお構いなしに、父は真剣な眼差しで淡々と作業を進めてゆくのである。
「ふーっ・・・」
餌を付け終えると、やおら立ち上がって川面を見渡す父。
もう既に当たりを付けた場所に竿を振って、餌で川の中の魚を誘うのだ。
わたしは父の表情と、川の中のミミズの動きから目が離せなかった。
「とちゃん。ほらっほらっ、エサくってる」
「あーっ・・・」
「ほらっ、きたきた」
「んーっ・・・」
「あーっ・・・、にげられたーっ」
「だなーっ・・・」
わたしは父の背後に立って肩越しに指図しながら腕を揺するものだから、だいいち魚が寄り付くはずもなかった。
それでも父は嬉しそうに、わたしの言う通り竿を振るのである。
「惜しかったなあ」と口では言いながら少しも悔しそうな素振りを見せず、また暴れまわるミミズを器用に釣り針に通す、父の白くて細いしなやか指。
わたしは父の太ももの上に身を乗り出して、苦痛でのた打ちまわるミミズを凝視するだけだった。
「メメズおっかなくねのか?」
「メメズーっ?・・・」
「寝むてか?」
「んんんっ・・・」
「そっかー、とみはまさに似て、べっぴんさんになるなー」
「かちゃんみてにーっ?・・・」
「ああ、おめのかちゃんは頭も良いし頑張りやだ。おめもそうなる」
「おれもーっ?・・・」
「ああ、そだ・・・。まさは俺なんかにゃ、もったいない嫁さまだ」
「・・・」
餌の付け終わった針を水面ぎりぎりに竿を動かしながら、川の中央のたまりにゆっくりと沈めた。
前屈みになって、さらに丸い背中を折りながら、黙ったまま、じっと水中を見詰める父。
弛まなく、ゆったりと流れ行く川面に、おそらくは、自身の遠い過去の思い出でも重ねていったのであろうか、静かに、瞼を閉じてゆく。


「あーれーっ!、おまえ、まさじゃ、ねか。何でこんな山ん中に居るっ?」
「・・・」
ぜんまいの入った竹篭を背負って、裏山の斜面を駆け上がる小学生の父、敬造。
ひとしきり探し回っての帰り道。
だが、薄暗い雑木林の獣道は、草や木の枝が頼りの急斜面だった。
何故か窪地でべそをかいている、同じ部落の二級下、母のまさを見つけて声をかけたものだ。
「こんなとこで、泥だらけでーっ・・・。あーっ、おめー、おらの後ついて来たんか?」
「・・・」
まさは俯いたまま敬造を見ようとも、なお答えようともしなかった。
「・・・そんで、戻れなくなったんか?」
まさの、ねんねこの泥を落としてやりながら、背中の赤子を気にする敬造。
「・・・ん・・・んんっ」
まさも顔をあげて、ようやく敬造に答えるのであった。
「おめー、そんでもよく、こんな崖よく下りてきたなあ」
「・・・んっ、うん。おれ、とちゅうでころんですべりおちて・・・」
「あれーっ・・・。まさ、赤ん坊の顔も泥だらけじゃねか」
「・・・うわー!・・・」
大声で泣き出す、まさ。
「ああ大丈夫だ、ちゃんと息してる」
「うっうっ、さっきから泣かなくなったんだ。おばがおかしくなったらおらー・・・。おら、まーがおっかねえ」
敬造は赤子に被された手ぬぐいを外して、さっと手で熱を測ってやる。
綿入れの半纏が衝撃を吸収し、まさの妹の体には少しの怪我も無かったのである。
それでもまさは、止めようもなくこみ上げてくる自身の反省の念と父親の怒りの表情が頭の中wを駆け巡っていた。
子守をしながら、日頃から注意されていた危険な崖下にいて、そのうえ妹に何か有ろうものならただで済まぬことくらいは分かっていたからだ。
「・・・まさ、いか。おれが子守りしてる、おめをここまで連れてきたことにするから、いな?」
「・・・」
まさは自分だけではどうすることも出来ず、敬造の言う通りにするしかなかったであろう。
「もうじきに真っ暗くなっちまう。おれが赤ん坊背負ってやっから、まさはおれのズボンのバンドしっから握ってれ。いな?」
「・・・うん」
「心配すんな、おめの家まで連れてってやるすけに」
「・・・んー・・・」
薄暗い広葉樹林の崖の斜面を、二人は手を取り合いながら部落の端の、鎮守の社を目指して上っていった。
とうに帳も下りて、夕飯の時間に居ないことを心配し、いよいよ両親共々騒ぎを聞きつけた村人たちが探し回っていた。
そして、いよいよ崖路を伝って、鎮守の杜に姿を現す二人を認めた時には一同心をなでおろしたものであろう、気遣うように、何事もなかったごとくその場を離れてゆくのだった。
だが、皆に頭を下げながらも、目を覚まして泣く赤子を恵造の腕から引き取るまさの母とは違って、父親は、俯いたままの娘の表情を確認するように激しく問いただすのであった。
「光江っ、子守するのにこんな時間までどこ行ってたっ、心配させて!」
「・・・」
「崖下の方へ行ってたんかい?オバになんかあったらどうするきだい?まさっ」
「・・・」
父親の問いかけに対し、泣き出さんばかりに肩をすぼめて一切語ろうとしない、まさを擁護するように、一歩歩み寄り、深々と頭をたれながら言い放つ敬造。
「すみません!。俺がまささんを一緒に連れてったんだ自分がつれてったんです。本当にすみません」
敬造こそこんな気持ちは未だかつてなかったろう。
まさが好きであったわけでなし、自虐的に演じているわけでも、正義感を味わおうなどとも思わなかった。
「なにー、お前さんがかい・・・、まさ、そうなんか?」
「・・・おらー・・・」
「本当にすみません・・・」
何かを言い出そうとする、まさの言葉を遮って、とっさに敬造は、なおも大きく頭を下げていた。
以降、まさの父親にどれほど罵られ、自分の両親にきつく叱られようとも絶対に真実を話すことは無かった。
だが不思議なほどに嫌な思いはなく、さりとて、まさに優越感他その類や、損得感情の類一切合切無かったほどだ。
まさとて同様で、以来、二人だけの秘密になっていた。

 

「とちゃーん、とちゃんてばーっ。ほらっほらーっ・・・」
ふっと我に返る父。
「んーっ、あーっ・・・」
その時父は、眠っていたのに違いない。
おそらく、これまでに見たことも無いほどの大きな岩魚が、餌のミミズに喰らいついているのさえ気がついていなのだ。
「ほらっほらっ、とちゃん。さおひけって」
「んー?、ああ、そっかっ。よしっ」
立ち上がりざま、あまりにも勢い良く竿を引き上げるものだから、岩魚の口元に針を残してテグスがぷっつりと切れてしまった。
逃した魚が大きかった分その反動も同じで、竿を後ろに反らしながらしりもちをつく父。
「とちゃん、またにげられたーっ。あはははは・・・」
「そだな、あはは・・・」
「とちゃん、へたくそー。ははははは・・・」
「あーっ、そだなー。ははははは・・・」
「とちゃんて・・・
 

・・・とちゃんてばー・・・」
「・・・富子さん、ねえ富子さん?・・・」
わたしはいつの間にか眠っていたようである。
先生の詠み聞かせてくれる本はいつも楽しく、わたしの気持ちを湧き立たせ、未だ見たことも無い世界中の隅々のことまで目の前に浮かび上がらせる。
だが今日はうとうとし始め、何故か夢の中の主人公は父親だったのである。
静かに耳元に囁きかけてくる、りえ先生。
「・・・んっ、うーん・・・」
「ふふふ・・・冨子さん、夢見てた?」
テーブルに伏せたわたしの頭を撫でながら微笑んでいた。
「うーん・・・。おらー、とちゃん・・・」
「ううん、いいのよ言わなくても。それより暑くない?」
すべての事情を知った上で、わたしを気遣ってくれていたのであろう。
「んっ、ううん」
「そう。まだご本、読んで欲しい?」
「んっ、もういい」
「そう・・・。ねえ富子さん、あした家のお手伝いって忙しいかしら?」
そっと栞を挟んで本を置くと、わたしの顔を覗き込んでくる。
「ううん。かちゃんはやまにでるども、おら、ばちゃんとるすばんしてる」
「あら、そうなの。じゃあよかった。あした先生とお絵かきに行かない?富子さんの好きな場所でいいのよ。ねっ、どこか景色のいいところ知ってたら連れてって欲しいのよ。どう?・・・」
一斉に忙しかった田植えもようやく済んで、後は家族が食すだけの畑仕事も母ひとりの手で十分だった。
先生は、家の事情を察知してわたしを元気付けようとしてくれたのではなかったか。
「おら、いっぺしってる。とちゃんとじてんしゃであそびにいったことあるんだから」
わたしは嬉しさのあまり、有りっ丈の笑顔に身振り手振りで答えたものだ。
「そう、よかった。後で先生、智子さんの家に明日のことをお願いに伺うから、お母さんにちゃんと話しておいてね」
「うん、分かった。かちゃんにいっとく。じゃあ、あとできてね、せんせ・・・」
「ええっ、あっ、ほらっ富子さんっ、走ったら駄目よっ!階段に気をつけなさい」
「うーんっ・・・。あっ、はーい」


りえ先生の実家は、十日町で織物の染色工場を営んでいた。
裕福な家庭に育った彼女は、推薦で入学した長岡の女学校から直江津の女子師範学校に進み、卒業後は、故郷十日町の小学校で教鞭を執ることを希望していた。
だが当時、仮に町の教員採用試験に受かったとして直ちに教員として就職出来るものでもなく、産休か中途退職の補充要員の空きを待たねばならず、さりとて、地場産業の繊維業界こそ御多分に漏れず不景気のあおりを受けて就職難極まりなかった。
それまでは戦争特需で一時持ち直したかにみえた景気も、過剰な設備投資の債務や、後の関東大震災の復旧復興費用、そして、その復興最中引き起こされる金融恐慌などによって慢性的な不況に陥り、さらにはアメリカから端を発した世界恐慌が日本にも波及し、日本経済は一気に奈落の底に突き落とされてゆく。
多くの中小企業は倒産し、当時の大学出身者にして就職先も無く、街は日増しに失業者の数が増えていった。
農業分野においても、生糸の対米輸出の激減、米価の暴落等の煽りを受け、とくに米、繭生産農家は大打撃を受ける有様なのだ。
青田売りや娘の身売り、完全欠食児童など、山間農村部では生活苦に陥り自殺者も出るほどだった。
彼女は迷わず、空きの有った松之山の採用試験を受けて、早速この分校に遣ってきたのである。
だがこの地は冬ともなれば、例年の積雪がゆうに三メートルを超えて半年間は陸の孤島と化す。
その上、冬以外でも十日町からこの分校までの交通の不便さを考えると、決して安易な選択ではなかったはずだ。
それでも子供が好きだった彼女は、親の言いなりで結婚し、平凡な家庭生活を送るよりも、自身の人生目標に掲げた学校教育に生涯を捧げることを決意。
そして、分校の近くの、部落でたった一軒しかない雑貨屋の二階に下宿先を定めたのである。
その日は先生の、一週間ぶりの帰省の日であった。  

家に帰ると、まず最初に牛の様子を見るのが、わたしの役目なのだ。
飼料箱の樋を退けて、餌用の生草を両手で一抱えし、内玄関の横にある厩の餌箱に放り込む。
今度は流しの井戸場から、ブリキのバケツいっぱいに水を汲んできて、餌場の角に固定された水桶を満たしてやる。
わたしが、柵の棒に体を乗せて中に身を乗り出すと、いつもその大きな体を揺すりながら、ゆっくりとした動作でこちらに近づいてくる我が家の牛。
「うえっ。しっ、あっちへいけっ!」
瞬きもせずに見開いたまま、わたしを見詰める大きな目ん玉。
いくら振り払っても、よだれを垂らしながら額を摺り寄せてくる。
「ほらっ、はやくくえ」
 モー・・・
「うめか?」
 モー・・・
何か語りかける度に顔を上げ、その大きな瞳にわたしを映し出した。
「とみーっ、帰ったのかい?」
「ばちゃーん・・・。ばーちゃーん」
開けっ放しの家の裏側から聞こえてくる祖母の声。
「畑に居るよー」
裏庭を取り囲むように植えられた風除けの樹木の内側に、ほんの僅かばかりの畑を耕やしていた。
「ふーっ、ばちゃーん」
「何処に行ってたっ?」
クワを持つ手を休め、腰を伸ばしながらわたしに微笑みかけてくる祖母。
「がっこっ・・・」
「りえ先生、居たかい?」
「うん」
「そうかい、良かったねー」
祖母は山着の胸ポケットから真ん丸い醤油飴を二つ取り出して、わたしの手に握らせてくる。
「私にも、あーん・・・」
口をおおきく開け、腰を折ると、首をすぼめながらわたしに飴玉を催促。
「ああ・・・。ほら、ばちゃん」
わたしは自分が食べる前に先ず祖母の分の飴玉を剥いて、口の中に入れてやった。
「ありがとさん」
「へへへ・・・」
目の前には丹精込めて育てた野菜や果物、今が盛りの草花が所狭しと咲き誇り、敷地の縁を、シソやドクダミが我が物顔で自生していた。
家族で日々食す葉ものも豆類も、祖母が耕すこの畑で十分賄えたのである。
わたしの祖母は、もともと長岡の都会育ちの娘だった。
その地で、鉄道の保線員の祖父と知り合い結婚。
そして長女の母が生まれて間もなく、実家の父が亡くなったのをきっかけに、長男だった祖父は一家を引き連れこの松之山に戻ってきたのだ。
町の勤め人の家庭に育った祖母にとって、この山深い松之山での生活は大いに戸惑ったに違いない。
それでも祖母は、村人やこの大自然に逆らうことなく、全ての困難を受けとめながら、むしろ自らに対し正直に生きることで、この地の中に溶け込んでいった。
そして何時しか村人たちも、彼ら一家を心から受け入れてくれたのである。
しかしこの山間僻地の暮らしにようやく慣れてきたころ、当時のはやり病で大黒柱の祖父が他界。
それはまだ、母が尋常小学校を終える前年のことだった。
祖母は僅かばかりの年金と、傾斜面の田畑を耕しながら必死でこの家を守り通してきたのである。
「ねーっ、ばちゃんてー」
「んーっ?・・・」
祖母は自身の首にかけた手ぬぐいを外すと腰を折って、屈みながらわたしの額の汗を拭いてくれる。
「ねーっ、かちゃんはー?・・・」
「かちゃんは山へ行ってる。もうじきに帰ってくるよー」
「ばちゃんてー、おれあしたせんせと、えをかきにいくんだー」
「へえ、そりゃ、良かったねえ。どこに行くんだい?」
祖母は嬉しそうにわたしの顔を覗き込むのである。
「おれに、きれいなばしょおしえてくれって、せんせ・・・。おれいっぺしってるー」
わたしは祖母のモンペズボンを掴んで祖母の顔を見上げたものだ。
「へえーそうかい、じゃあ先生にきれいな場所を教えてあげるといいよ」
「うん。ふふふ・・・」
「じゃあ私も、まさが帰ってこないうちに、まんまでも作るかねえ・・・。牛に餌あげたかい?」
「うん」
祖母は腰に手を当て、伸びをしながら畑を見渡した。
「そうかい。ほらーっ、じゃあ、とみも中に入らっしゃい」
わたしに声をかけると敷地の端に流れる水路の中で、泥の付いたスキとクワを丁寧にはらい落とした。
それから、今収穫したばかりのネギと白菜を洗うと大きな草刈鎌で根っこを切り落とし、手際よく手かごに並べてゆく。
地下足袋を外して川の中で足を洗い終え、草履に履き替える祖母。
次にわたしを促すと、そのまま野菜と農具を持ってそそくさと家の中に入って行くのである。
「よいしょっと・・・」
わたしはゴムの短靴を履いたまま川の中で足を沈ませ、水をこざいてバタつかせながら短靴の泥を洗い流すのだ。
川から上がると裸足になって、爪先立ちで祖母の後を追いかけた。
「ばちゃーん・・・」
「ああ・・・。とみ、何が食べたい?」
「おら、なんでもい」
とくに何が有る訳でもなかった。
タケザルの中の自家製の人参、ゴボウ、レンコン、昨日裏山で採ってきたキノコの類と新芽物、と、まあこんな具合である。
祖母は油の入った年代物の大きな天ぷら鍋を焜炉に乗せ、粉の入った金ボールに水を注ぎながら素早くかき混ぜてゆく。
同時に用意したソーメン汁の鍋を囲炉裏に吊るすと、すぐさま鰹節を削り始める。
祖母は、母より料理の手際がすこぶる良かった。
わたしの役目は、油の温度をみることと揚がり具合を味見することなのだ。
「どうだい?」
「ああ、うめ・・・」
祖母の揚げる天ぷらはどれもこれも絶品だった。
「あっ、かちゃん、かえってきた」
「よいしょっ・・・」
「かちゃん、おかえり・・・」
「まさ、ご苦労様・・・」
「あっ・・・。ええ」
牛の餌を入れてきた大きな背負いかごを板の間に置くと、よろけるように茶の間の囲炉裏端にへたり込む母。
「かちゃん、おれがかたもんでやる」
「ん・・・、ああ」
囲炉裏の中で点けたばかりの焚き木がパチパチと音を立てて飛び跳ね、煙を出して、燻り続ける生木の太い枝をようやく赤く燃え上がらせる。
家中に充満する、煮た立った鍋のソーメン汁の香ばしい匂い。
「かちゃんて、おれなあ、あしたせんせと、え、かきにいくんだー」
「あした日曜日だろ。みんなとかい?」
「ううん、おれひとりだ」
「何でだい?。何でとみ、お前一人だけなんだい。ここの家だけ先生にひいきして貰う理由でもあるんかい?」
喜んでくれると思った母が、何故か急に不機嫌になるのだった。
「まさっ、せっかく先生がとみのために言って下さるんだろ」
「かかさまは黙っててくだされ。おらの子供だすけっ・・・」
「まさっ・・・」
「・・・」
祖母から視線を逸らすように黙ったまま立ち上がり、足を洗いに流し場に向かう母。
わたしはその時、何故そんなに母が怒るのかが理解できなかった。
「こんばんは・・・。失礼します」
「あっ、せんせだっ・・・」
玄関の外から、りえ先生の声。
わたしは走り寄り、板の間の入り口の障子戸を開けた。
「こんばんは・・・。あらっ、すみません。ちょうどお食事中だったのですね」
「ああ先生、お晩です。良いんですよ。どうぞどうぞ、中に入ってください」
立ち上がりながら挨拶を済ませ、先生を家の中に招き入れようとする祖母。
「ええ、私はここで・・・。あらっお母様、今晩は・・・」
「先生、今この子から話しを聞いたら、明日連れて行くのはこの子だけだって言うじゃないですか。この子やこの家だけ特別良くされなきゃなんない訳でも有るんですかのーっ!」
声を聞きつけ、玄関に歩み寄る母。
先生の顔を睨みつけながら食ってかかるのだ。
同性の年下の者に、父のことで蔑まれているとでも思ったのだろうか。
わたしはそれまで、こんな母を一度も見たことが無かった。
「まさっ、何を言ってるのっ!。先生は親切で言って下さっているのよ。先生、本当にごめんなさいね」
祖母は先生の前で跪き、両手をついて如何にも申し訳なさそうに深々と頭を下げるのである。
「あっ、おばあ様、止めてください。私こそ余計なことをしてしまったのかもしれません。本当にどうか、もう頭をお上げください・・・。お母様、無神経な私をどうかお許し下さい。この通りです」
自身の至らなさを悔いるように、祖母の両腕を握りながら謝るりえ先生。
そして仁王立ちの母に向き直り、静かに頭を下げるのだった。
「せんせ・・・」
わたしはその時、目の前で繰りひろげられる光景が一体何なのか分からず、ただ呆然としていた。
「まさっ。先生に、ほらっ・・・」
多分、祖母には我が娘の気持ちが痛いほどに分かっていたのだろうが、それでも先生の前でゆっくりと母を諭すしかなかった。
「ううん・・・。先生、本当にごめんなさい。私こそ人の優しさが分からなくなっていたのかもしれない。いいえ、本当はそうじゃないの。人に優しくされるのが怖かったのよ。この家のことを全部知っていてくれて、富子や私たちに親切にしてくれて・・・。分かっているのよ・・・。先生、本当にありがとう。どうか頭を上げてください」
母にとって、父は初恋の人だった。
母は、いったい自分の何処がいけなかったのかをはっきりと、父に問い質したかったに違いない。

翌日の日曜日、高台の原っぱを、朝から強烈な陽射しが降り注いでいた。
心地よく当たり一面を吹き渡る風が、きらきらと照り返る木々の葉や足元の草花を大きく揺すって眩く、目を覆いたいほどだった。
青々とした山並みと、息苦しいほどの初夏の草いきれ
「へえーっ、学校のすぐ裏山にこんな見晴らしのいい所があったのねえ。周りのブナ林もきれいだし、本当に素敵な場所・・・。富子さん沙耶さん、どうもありがとう。今度の遠足はここにしましょうね」
「へへへ・・・。おらまだ、ほかのところもいっぺしってるー」
「ふーん、そうなの。じゃーこの次にまた教えてちょうだいね。じゃあ、ここにしましょうか」
わたしたちは小高く盛り上がった、ちょうど見晴らしのよい場所を見つけると、持ってきたをゴザをそこに広げてゆく。
昨日、あれから先生を見送る途中にふたり相談をして、同じ一年生の沙耶も誘ってやることにしたのだ。
集落の中でも、疎らに点在する一番端っこに建った沙耶の家。
同級生三人のうちの一人だった。
遅れてやってきた春はいま田植えも済んで、ようやく町の季節に追いついていた。
陽射しが強い割には麓から吹き上げる風はとても心地よく、近くのブナ林や、眼下の、扇状に伸び広がる棚田から裾野に拓けた町並みまで、まるで手にとるようにはっきりと浮かび上がって見えるのだ。
わたしのお気に入りの、向こう側の山並みの眺望が抜群に良かった。
「はいはい、そこに座って座って・・・。その風呂敷を解いて画板と画用紙出してちょうだい。」
「うん、これか?」
「そうよ、ふたりの分もあるのよ。クレヨンも絵の具もね」
「これもか?」
「そうよ。ほら、こうしてね」
わたしは先生に画板を首にかけてもらい、クレヨンと絵筆を手渡されると嬉しくて、もう声を発しそうなほどに有頂天な気分だった。
「はいっ画用紙をこうして・・・。ほら富子さん、沙耶さん、自分の好きな物を書いていいのよ」
「ああ、うん・・・」
雪解けの遅い分だけ新緑の森が勢いよく萌えたち、より一層眩く木々の葉一枚一枚を陽に輝やかせていた。
突き抜けるほどの鮮やかな空の青さと、深く濃い緑の峰々。
先生のブナ林を見詰める真剣な眼差しや、絵筆を動かす楽しそうな仕草を隣で眺めながら、わたしはこんな幸せな時間があることをその時初めて実感したのである。
「どう?」
「んっ、うーん」
「ねえ、自分達の一番好きのところを好きなように書いていいのよ。空でも、向こう側の山でも、原っぱでもね。ほらっこうやって鉛筆で下書きしても良いし・・・。冨子さんはこの中で何が一番好きかしら?」
「えーと、そだなーっ・・・。おらっせんせがすきだ」
「えーっ私?・・・。そう、じゃあ良いわよ、モデルになってあげるわね。はいっ先生の顔をよく見て書くのよ。大きさだって好きなように書いて良いからね。はい、富子さんの思うよう書いてみてちょうだい」
「・・・うん」
わたしは教えられた通り、先生の佇む姿の輪郭をクレヨンで縁取りした後、水彩絵の具で中を色塗りしてゆくのだ。
自分の思い通りにパレットの中で絵の具を混ぜ合わせ、木々の若葉や遠くの野山を背景に、直接画用紙に塗りたくる楽しさをかみ締めていた。
「ふふふ・・・」
「だめかーっ?」
「いいえ、そうじゃないの。富子さんにとって先生やこの野山がどう映っているかといるかと思ってね。ほらっ、前に富子さん、棚田が嫌いだって言ったでしょう。だからどんな風に書くのかなーってね」
「・・・うーん」
「いいのよ、富子さんの思うように書いてくれて・・・。先生のこともね。それが、富子さんの心の目で観て描いた絵なのよ」
「・・・こころのめー・・・」
「ええ、そうよ・・・」
わたしには、方々で顔を出す山リスの可愛らしさや目の前で自己主張する鮮やかな草花よりも、大川の向こう側に隆々と聳え立つ大山脈の方がよっぽど興味が沸くのである。
父に聞いたことのある、さらに、その向こう側の町の風景や人々の生活を想うだけで、いつもわたしの心は高鳴った。
「二人とも良いわよ。凄く上手ねえ」
「へへへ、おら、おもしい」
「うん」
先生は自分の書きかけた絵は放っておき、わたしたちの絵に付っきりになってくれていた
「そう、良かったわねー。じゃあ、ちょっとお休みしましょう」
「うん」
大きなブナの切り株においた水筒と三つの湯飲み茶碗。
さらに先生は、リュックの中から笹の葉で巻いたヨモギ団子を取り出すと、広げた新聞紙の上にならべてゆく。
「ふふふ、富子さん、沙耶さん、好きかしら?」
「うん、おれすきだ」
「あたしも・・・」
「そう良かった。昨日あれからね、店のおばさんたちと一緒に作ったのよ。はい、食べてちょうだい。美味しいわよ」
幾重にも巻かれた笹の葉を丁寧に剥いてゆく、楽しそうな先生。
剥き終えるとわたしと沙耶ちゃんの前に並べて、また剥き始める。
「せんせもくえば・・・」
「ええ、ほらこんなに沢山有るから大丈夫よ。どう、美味しい?」
「あーっ、ほんとにうめ・・・」
「ふふふ良かった・・・。あなた方が美味しそうに食べてくれるだけで先生はもう十分・・・。ねえ、何か辛い事ない?」
湯飲み茶碗に、水筒のお茶を注ぎながらわたしたちの顔を覗き込んでくる。
「ううん、おらそんなこと、なんにもねーよ」
「そう、沙耶さんは?・・・」
「ううん・・・」
「じゃあ、良かった。はいお茶も飲んで・・・。ふふふっ、ゆっくりと食べなさい」
「うんっ・・・なあ、せんせ・・・」
「えー、なあに?」
「んっ、んん、ん・・」
「なあに富子さん、言ってみなさい」
手を休め、心配そうに顔を上げる先生。
「んん・・・なあせんせ。とうきょうってどっちだ?・・・」
「東京?・・・。そうねえ、あの山のずうーっと向こうかしら。ねえ、どうして?・・・」
雄々しい向こう側の山並みに振り返り、改めて、心配そうにわたしの顔を覗き込んだ。
「んーっ・・・」
「・・・列車に乗ってね、あの大きな山に掘った長いトンネルを潜ってゆくのね。それからまた何時間も何時間もよ・・・」
「ふーん・・・ひとがいっぺいるのかー?」
わたしは、向こう側の山並みの、さらにずっと遠くの都会の町に、何か特別な思いを馳せていたのかもしれない。
「そうねえ、大都会だから沢山の人たちが生活してるのよ。色々な人たちがね・・・」
「・・・」


昭和七年、未だ止まぬ昭和大恐慌の影響は、この松之山にも暗い影を落としていた。
当時の米価格の暴落は、他に生活手段の無い小作農家にとってまさに死活問題なのである。
豪雪山間部の傾斜面を利用した棚田が多く、それでも地主から借り受けられる耕作地は多くてもせいぜい五反歩止まり。
極めて狭い、その一枚一枚の田んぼは各々形状がまちまちで作業効率も悪く、収穫量など期待するには程遠かった。
副業の養蚕にしろ、地元十日町地場産業が大打撃を受けるとそのまま繭生産農家が煽りを食う有様だった。
例え農民がアワやヒエを食って飢えを凌いだとして、まさか地主や役場が地代や租税を待ってくれる筈もあるまい。
一握りの地主や勤め人を除いた、農業を生業とするこの地の人たちにとって日々食いつなぎ、生き延びるだけでも極めて過酷な生活環境だったに他ならない。
専業、兼業の差や、自作農、小作農、或いは自小作農の違いは有っても、半年間は雪に埋もれて外に出られず、雪解けが遅い分だけ時期遅れになってしまう苗代、代掻き、田植え、いびつで狭い傾斜地での草取りや水遣りなどの耕作作業、さらには冷害や寒害、日照不足による病害虫の被害等など、どれひとつとってみても平場の稲作りとは比べ物にならないほどの悪条件なのだ。
作物のみならず、激しい昼夜の寒暖差や山間窪地による夏の蒸し暑さ、他に類を見ない豪雪地の冬の厳しさ、そのうえ尚圧し掛かる高い地代や重い祖税等、これら全ての困難を前向きに受け入れ、時にはそのやり場の無い怒りや辛さを、それでも必死で耐え忍び辛抱強く生き抜いてきた我々の先人たちを想うとき、いま改めて尊敬の念を抱かずにはいられない。
ひとたび政変や天災でも起きようものなら、今すぐにでも立ち行かなくなるのは目に見えていた。
沙耶の家も例外ではなかった。
両親、それと昨年暮れに信州の紡績工場から病気を理由に解雇され、自宅で寝たきりの姉、光恵との四人家族。
大川に向いた急斜面に、僅かばかりの米と自給用の野菜を栽培する小作農家なのである。
また、この地において自作農と小作農の格差は非常に大きい。
先祖代々受け継いできた土地を耕して生活を営む自作農家と違い、自身の土地を持たずして、全て地主から借り受けた土地に作物を植え付け、その収穫高の中から地代と税を納める小作農家。
それとても、山間部松之山郷内では他に主だった産業が無いうえに多くの農民たちの需要に対して、耕作に適した土地が少なく生活できるだけの土地を充分に供給されていなかったのである。
かくして平場より相場がつり上がる地代や租税、狭い耕作地の手間など、人々はかなり大きな負担を強いられていた。
それはまるで、年貢を納めるために働き続けなければならない、彼ら農夫が背負わされた定めのようだった。
多くも採れない五反部ばかりの棚田から、その高い小作料と重い祖税分を差し引いて、一体どれだけの食い扶ちが残ろうか。
当たり前のように、毎年右肩上がりで増えてゆく借金と利子の数字。
その執拗なほどの取立てに、着るものも着ず、食べるものも食べずに朝から夜中までただひたすら奴隷のように働き通した。
それでさえ、限られた傾斜地の田んぼの中に宝の山が埋まっていよう筈も無く、だからとて、一家夜なべしての竹細工や稲藁編みの内職を誰が笑えよう。
そして姉の光恵がようやく尋常小学校を卒業し、信州の製糸工場に出稼ぎが決まると、その僅かな前渡し金が一家の危機を救うのである。
妹の沙耶とは九つ違いの、数えでまだ十三歳の春だった。
光恵はそのとき、プラットホームの端でこちらを見詰める父の姿がいよいよ遠くなると、自分の門出でも祝うかのように、大きく汽笛を鳴らし続ける機関車の先に視線を移した。
黒鉛を吐きだしながら、徐々に勢いをつけて突き進む希望の列車。
ホームで見送る父や家族との別れの辛さよりも、これから訪れるであろう自身の明るい未来に夢を馳せ、大きく胸を躍らせていた。
光恵には、毎年盆暮れに帰省してくる村出身の熟練工女たちの、堂々としていかにも自信に満ち溢れた姿が、子供ながらに眩しかったものだ。
身にまとった真新しい着物や両腕に抱えきれないほどの土産の数々、そして会話の中に現れるまだ見ぬ夢のような世界。
光恵は、一刻もはやくこの村を出たかった。
だが決して、貧困や山の暮らしが辛いというだけではなく、日々すでにもう草臥れ果て、物も喋らぬ父と母の背中を感じるたび、未来の無いこの現実から目を背けたかったのである。
世の中は未だに慢性的な不況に喘ぎ、人々の生活は尚、困窮したまま一寸先も見通せない状況だった。
関東大震災を境にして、次々に引き起こされる金融経済恐慌の嵐は日本の全産業を脅かし、その影響は更に深刻化していった。
資源の無い日本で、輸出の花形だった生糸や綿織物。
その低価格で高品質と賞賛された製品は、ひとえに、劣悪な労働環境や低賃金の上での女工たちの確かな技術に裏打ちされた、彼女等自身による努力と涙の結晶そのものだった。
だが、それとて、希望に燃えて入ったばかりの光恵にとっても、それほど甘い環境ではなかったはずだ。
先輩工女たちの、決死の労働争議の末に勝ちとった「自由外出」や「夜の労働禁止」など、ようやくここにきて認められたものなのだ。
逃げ出せないよう寮の門に施錠した一切外出禁止の処置や、親族との違法な契約による長時間労働など、当時、軽工業の輸出に頼らざるを得ない逼迫した状態の日本経済が如何に危うく、そして、それは過酷で悲惨な状況に置かれた彼女等の犠牲の下に成り立っていたことを考えると、いざ何かことが起これば、時の政治も経済もあらぬ方向に暴走しかねない一触即発状態だったと言っても過言では有るまい。
それでも山の生活から考えれば、一日三食白い飯が食べられ、綿の布団のありがたさを実感出来るだけでもまだましだった。
二段ベッドが並んだ、このタコ部屋のような社会環境の中でも、光恵は身の丈のしっかりとした希望を見出していたのだ。
一日も早く、工場内で表彰されるような一人前の女工になり、いつか金を貯めて父のために棚田を買ってあげたい。
田んぼの中の、小金色に実った頭を垂れる稲穂の一粒一粒まで自分達の勝手にでき、いつでも腹いっぱいになるまで食べられるようにと。
そして、いつしか良き伴侶と巡り逢い、幸福な家庭を築けることを願うのであった。
新入りの光恵は一早く仕事を覚えて、優秀な糸ひき工になろうと懸命に努力してゆく。
多くの女工たちの前で罵倒されながらも、それでも確実に技術は向上していたのだ。
工場の班長さえ舌を巻くほどの負けん気や粘り強さは、生まれ育った松之山にして半年間は雪に埋もれて暗く冷たく、その上食べるものも食べずに、何れ訪れるであろう春を辛抱強く待ち続ける、山間豪雪地特有の生活環境が少なからず影響していたのかもしれない。
叩かれてもめげない光恵を反面教師に仕立て、他の女工たちにやる気を促す班長らの戦法も、いつしかその旗印を降ろさざるを得なかった。
彼らはもうすでに腕をあげた光恵を認め、一目置くようになっていた。
しかもその年の暮れには、若手職工の中でも表彰されるほどの腕前だったのである。
こうして麓の駅に降り立つ娘の姿が、迎えに来た父親の目にどれほど眩く見えたことか。
会社から貰った土産の品と新しい着物を誇らしそうにして、然れどはにかむように微笑む光恵。
手には、家族のために貯めた給金入りの封筒を、力の限りに握り締めていた。
明日の山越えに備えて、立派な料亭の暖簾を潜る四人の優秀な女工とその家族七人。
光恵はそのとき、少しだけ夢に近づけたような気がしていたのだ。
用意された昼用の握り飯を受けとり、宿を出たのが朝の七時、前夜から降り続く雪は一向に止まず、踏み固めた道の両脇の、すでに白壁と化したその上にも尚、雪嵩を増やしていた。
綿入りの半纏とモンペ姿に着替えた娘たちは、スゲミノを着け、山笠を被ると男衆の後ろについた。
前に五人、後に二人の男衆と、間に挟まれた娘四人、計十一人の一行だ。
この時期すでに、大陸からの寒風ともに吹き荒ぶ日本海側の湿った雪は、道なき道の斜面を上れば上るほど容赦なく、体中に痛く冷たく染み込んでくる。
途中に何度か吹雪いて前が何も見えない崖道を、降り積もった軟雪に足をとられて肝を冷やしながらも、峠近くの隣村の社にたどり着いたのはもう昼近くだった。
娘たちは、顔を覆った厚手のショールも外さないまま、杉林に囲まれた鎮守の板の間に腰を下ろした。
竹のカンジキを履いた藁のスッペには雪が染み込んで、言いようのないほどの足の痛痒さか。
握り飯をかじる事も無く、一服し、用を足すと誰彼と無く次々に腰を上げてゆく。
もう村まで、じきだった。
後は下りだけの、今日はまだ誰も通っていない雪深い道無き一本道。
代わったばかりの先頭の男衆は、腰まで嵌る降り積もった新雪を体毎こざいて前へ進んだ。
次々に踏み固められる雪道に、更に前を進む先輩女工たちがその跡をなぞってゆく。
光恵には、横殴りの吹雪で少しも前方が見通せなかったが、それでも村外れの我が家が、すぐ目の前まで近づいていたのは分かっていた。
茅葺の小さな家の中の、自分の到着を待ち焦がれている母とまだ幼い妹の笑顔を想うだけで、光恵はすでに逸る気持ちを抑えられないでいた。
体の芯を通して、次第に高まる鼓動と雪を踏む音に紛れ、何故か先ほどから妹の声がしているようでならなかったのだ。
案の定、吹雪で霞む真っ白な雪の原っぱに唯一軒だけひっそりと佇む我が家を見つけて、内心、ひとり大声を張り上げたかったに違いない。
近づくにつれ、ようやく雪に埋もれた薄暗い玄関の奥から、自分に向かって手を振る母と妹を認める光恵。
もう先頭きって、今にも雪の中を泳ぎ出してしまいそうな思いなのだ。
だが、顔を見合わせるだけで、なにも大層な言葉も要らなかった。
ただ涙を堪えて小さく頷く娘。
そして久しぶりの、焦がれた故郷の家庭の匂いで十分だったのだ。
何も言わないまま、また小さく肯く母親。
ミノの上に山のように積もった雪を手で払い落としながら、黙って立つ光恵の首の紐を緩め、肩からゆっくりと外してやった。
凍えきった体の光恵の背には、たすきに背負った大きな土産物と、腕には大きな風呂敷包みが大切そうに握られている。
その雪に晒され、かじかんでしまった光恵の冷たい手をしっかりと握りかえすと、その細い指一本一本を大事そうに、両手を添えて息を吹きかける母親。
目も合わせないまま、今度は光恵の足元に屈み込んでカンジキの固く絞った紐を解いた。
光恵の片足を持ち上げると、かなり雪も噛んで、重くなったびしょびしょのシッペから足を引き抜き、そのまま足袋も脱がしてゆく。
すでに、霜焼けにもなりそうなほど赤く腫れ上がった娘の濡れた足を見て、母は自分の頭の手ぬぐいを外して丁寧に拭き終えると、いかにも愛おしそうに、懐に抱えて温めはじめた。
光恵は前屈みで母の肩に?まりながら、必死に涙を堪えるだけで精一杯だった。
まだ甘えたい盛りの十三の身で、世間の荒波に晒され、それでも気丈に家計を支える、か細い娘の肩。
母は、光恵を出稼ぎなどには出したくなかったのだ。
募集員の甘い話や、帰省する熟練工の聞こえの良い話にも裏があることは分かっていた。
働きの悪い女工には罰金をかけ、夜中まで働かせ、終いには、働きすぎで体を壊せば捨てられる。
実際これまで、工場から逃げ帰ってきた娘の保証金が払えずに、山を下りた一家を知っていた。
それでも、どうしてもと娘が望み、仮にそうでなくとも、他に通年の出稼ぎでこれほどの条件の仕事など一体何処に有ろうものか。
ましてや米の価格が半分に落ち込み、更に副業に始めたカイコの値が暴落したのでは、家族全員、明日の食い扶ちなど望めるはずも無かったのでる。
母も娘も、それでも何も言うことは無かった。
藁の草履を手にして、傍らに寄り添う幼い妹は、心配そうに姉の顔を覗き込んだ。
光恵は顔を上げて涙を堪えると、精一杯の笑顔で微笑み返えす。
帰るたびに、目に見えて成長してゆく妹。
何も心配ないと分かると、草履を揃えて土間に置き、姉の腕を握って家の中に誘うのである。
母は、妹の手に引かれて駆け出す光恵の明るい背中を見詰めながら、心の中でしっかりと手を合わせていた。
小学校を出たての娘が、いきなり大人の社会に飛び込んで、苦労の一つも無いはずは有るまい。
多感の時期にして、苦しいこと、悲しいこと、ほんの小さな恨みや辛み、愚痴でも弱音でも吐きたかったに違いない。
健気な娘は母親に心配かけまいと、工場の仕事や人間関係のことを、最後まで悪く言うことは無かったのだ。
玄関から直ぐの茶の間の土間には、光恵のために間に合わせた真新しいむしろが敷かれ、その囲炉裏を囲んで、綿入りの四枚の座布団が添えられていた。
息苦しいほどの黒豆を煮立たす鍋の甘い匂いが、冷え切った光恵の体の隅々にまで染み入ってきていた。
父母の寝室から、大きなボール箱を大事そうに抱えて戻ってくる妹。
光恵の、遠慮して除けた客用座布団の上にゆっくりとその箱を置くと、玉手箱でも開くかのように、そっと蓋を持ち上げた。
満面笑みを浮かべながら誇らしそうに、箱の中の一等大きな折鶴を光恵に差し出してくる。
光恵の掌の上で、ゆったりと翼を広げる美しい折鶴。
艶やかな絹布の衣装をまとい、凛として穏やかに佇ずむ幼い鶴が、ちょうど今、眩いばかりの夕陽を浴びて飛び立たんとしていた。
妹の沙耶のために、光恵が買って送った高価な千代紙だった。
母は二人の様子を嬉しそうに、町で買い揃えた正月用の食材を台所に仕舞うと釜戸で温めたばかりの甘酒をそっと差し出す。
盆の中の、何度か煮詰めたはずの、甘じょっぱい甘酒。
湯気をたてて、焦げた麹が浮ぶ湯のみ茶碗と野沢菜の漬物を受け取ると、光恵は、母の前に土産物と給金入りの封筒を手渡した。
驕るでもなく、何食わぬ顔で燃え盛る囲炉裏の薪に視線をやりながら、好物の甘酒をすする光恵。
母は娘の横顔に向かって、いかにも申し訳なさそうに深々と頭を下げると、そのまま座敷の部屋の仏壇に供えるのである。
線香を上げ、手を合わせながら、茶の間で妹と戯れる光恵を振り返る母。
町へ働きに出して一年足らず、成長してゆく我が娘のことが目にも眩いくらいに違いなかった。
父は雪踏みから帰ると、家畜に餌を与えに厩の中へ入ってゆく。
鶏六羽に家兎が三頭、ケージに入れているわけでもなく、夏場の庭での放し飼いを室内に移しただけなのだ。
時折り、腹でもすけば厩から抜け出し、茶の間にも顔を出す家族の一員。
それでも、盆や正月、大切な来客ともなれば、彼らは食用に供される運命にあったのだ。
干草と残飯を満遍なくばら撒きながら心を鬼にして、これぞと決めた獲物を追いかける父。
殺されてなるかと必死の形相で逃げ回る鶏。
そうでもなければ、頭を振り振り、餌を強請って近づいてくる愛嬌ものたちなのだ。
命がけの逃走の甲斐も無く鶏冠を掴まれた鶏は、絶叫一番、団栗眼をゆっくり閉じると覚悟を決めた。
雪の降り積もる堆肥場で、鶏の首を捻って捌き終えると、台所に走って母の用意した澄まし汁の鍋に放り込む。
母は母で、台所に吊るした新巻鮭を外すと、いかにも脂の乗ったところを大きく切り取り竹串に刺してゆく。
そしていつの間にか、お客だった光恵が葱を切り、妹の沙耶も椀を揃えている。
仲の良い、たった四人だけの家族。

豪雪を生き抜いた農民たち」「国史大事典」「あゝ野麦峠」等を参考にさせていただきました。